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​HISTORY

​青ヶ島の歴史
 東京から南へ約360km、江戸時代には「鳥も通わぬ」と呼ばれた流刑地・八丈島から更に南へ約70km、黒潮の流れる太平洋のただ中に青ヶ島はあります。現在は、世界でも稀な風光明媚な二重式カルデラ火山の絶景や、人口約160名の日本一小さな村として、“人生で1度は訪れたい秘境”と呼ばれ各方面で取り上げられることも多くなった青ヶ島ですが、近年までは黒潮の激流に隔絶され本土からは忘れられた絶海の孤島でした。そんな中にあって、青ヶ島に生きる人々は、黒潮にもまれ火山の島としての宿命を負った想像を絶する自然と対峙してきました。青ヶ島の人々が人知れず歩み乗り越えてきた、苦難の歴史をご紹介したいとおもいます。
1.天明の大噴火から「還住」への歩み

 青ヶ島はその昔、保元物語の中にも源為朝が渡った鬼ヶ島として描かれ、13世紀には既に人が住んでいたことが伺えます。黒潮の激流の中にそびえる断崖絶壁、まるで来るものを寄せ付けぬようなこの島影はまさに鬼ヶ島に相応しいものであったのかもしれません。青ヶ島のカルデラを形づくる外輪山は今から約2000年前に形成され、かつてはその中にふたつの大きなカルデラ湖を有していました。八丈島を始め多くの島々が、江戸時代においても台風など自然災害による度重なる飢饉に見舞われていたのに対して、高く険しい外輪山に守られ水も豊かなカルデラ内の耕作地を持つ青ヶ島は飢饉知らずであったと伝わっています。

 そんな島人の暮らしを一変したのが、江戸時代末期1780~1785に続いた火山の噴火でした。安永9年(1780)から始まった噴火活動は、湖の水位の上昇や噴出する火炎・噴石・火山灰によってカルデラ内の耕作地に甚大な被害をもたらしましたが、島人はくじけることなく噴火活動の合間をぬって田畑の復旧を続けなんとか耐え忍びました。天明3年(1783)の噴火では、島人の命の水瓶であった大池・小池の二つのカルデラ湖が消失してしまいました。それでも島人はなんとか天露とわずかに残った作物で食いつなぎ、天変地異の収まることを願い耕作地や住居の復旧を続けました。しかし、天明5年(1785)青ヶ島はとどめとなる大噴火に見舞われました。噴煙が海岸まで押し寄せ、集落はすべて降り積もった火山灰に埋まりました。カルデラの中には火砕丘(現在の内輪山「丸山」)が現れ、耕作地はすべて噴石と溶岩に飲み込まれました。噴煙と火山灰に包まれた島から、すべての緑が消えました。

 島人はついに苦渋の決断を余儀なくされました。故郷・青ヶ島を離れ、八丈島まで逃げ延びることを決意したのです。このとき八丈島からの助け船で約200名の島人が焼け落ちる島から脱出しました。流人・近藤富蔵が八丈島の歴史を記した大著「八丈実記」には、燃え盛る青ヶ島の海岸に多くの人々を残して助け船が岸を離れる非業の場面が語られていますが、青ヶ島の名主家に代々伝わる年代記、また伊豆代官所の公文書では島人全員が避難したと記されており、島に残る言い伝えも様々で八丈へ逃げ延びたときの正確な様子は定かではありません。ただ、安永3年(1774)に青ヶ島の島民328名であったことが確かであり、噴火活動がはじまり八丈島への避難までの約10年間に、百数十名にのぼる多くの命が失われていたことは事実です。直接的に噴火に巻き込まれたわけではないものの、飢餓・病気など噴火に起因するさまざまな厳しい状況が島人を苦しめ続けたことは想像に難くありません。

 命からがら八丈島へ逃げ延びた青ヶ島の島人にとって、ここからが半世紀に及ぶ本当の苦難のはじまりでした。天明年間は浅間山が大噴火して未曾有の大災害や飢饉が起こるなど国地・江戸も混乱の最中にありました。八丈島もまた度重なる飢饉によって大変に疲弊していました。青ヶ島の島人は、まさにそんな時代に八丈島へ渡り肩身の狭い避難生活を送らなければならなくなったのです。情け島・八丈といわれる八丈島の島人のなかには、殊更に青ヶ島の窮状に想いを寄せ私財を投げ打って援助をしてくれる方もありましたが、里外れに身を寄せ合い持てる土地もないままに暮らす生活は大変に厳しく、島人の胸に宿る「なんとかして青ヶ島に戻り故郷を再興しよう」という“起こし返し”の気運には並々ならぬものがありました。

 しかし、当時、渡ろうとする船を3回に2回は必ず遭難させた八丈島と青ヶ島を隔てる黒潮の荒海が青ヶ島人の希望を何度となく打ち砕きます。八丈島避難を指揮した名主・七太夫は江戸への陳情の帰路、八丈島沖で破船して命を落とします。意思を引き継ぎ“起こし返し”の礎を築いた名主・三九郎は、幾度も青ヶ島への見分渡航を試みさまざまな復興の手を打つも、度重なる遭難で多くの有望な人材を失っただけでなく、最後は自身も青ヶ島へ向かう途中に漂流し紀州の二木島に流れつき命を落としてしまいました。

 八丈島での避難生活も30数年を越え、八丈で暮らしを築く者や八丈で生まれ故郷を知らぬ世代も多くなるなか、彗星のごとく現れ青ヶ島人の故郷への想いを束ね今一度“起こし返し”に挑戦したのが、後に民俗学の大家・柳田國男氏によって「青ヶ島のモーゼ」と称された名主・次郎大夫でした。八丈実記の中にも、次郎太夫の人柄について「篤実にして私欲なく下民を憐れみ、、再興をなさばやと昼夜心魂をくだき、、」と記されており、温厚誠実にして情に厚く、不変の信念を持って故郷再興に挑んだ姿が浮かびあがって来ます。

 次郎太夫はまた、慎重冷静であり“起し返し”にあたり渡海・浜普請・道普請・伐開・漁・取締など役割分担から仕事の内容まで非常に綿密な復興計画をまとめあげました。そして、島人同士「一同相睦まじくあること」を再三にわたり固く約束させました。

 次郎大夫のこうした稀有な導きのもと、青ヶ島人は故郷への帰島を成功させ、島の復興に取り組みました。多くの島人の不断の努力と、大噴火からしばらくの時が経ち再生し始めた自然の後押しもあり、10年の歳月をかけ復興事業は順調に進みました。そして、噴火以後長きにわたり年貢の免除など助成措置を受けていましたが、ついに天保6年(1835)幕府によって検地竿入れが行われ青ヶ島の再興が公に認められました。大噴火から50年、世代を超えて半世紀に及んだ悲願、故郷への「還住」がついに成し遂げられたのでした。

2.青ヶ島の民俗芸能と「還住太鼓」の誕生

 青ヶ島で大噴火以前の古くから行われていた民俗芸能には、季節の風物や日々の楽しみとして親しまれた島唄・島踊りと、島の風土・風習と一体となり民間信仰として特異な発展を遂げた神事がありました。そして、神主、卜部、社人、巫女によって行われる神事の儀式において、太鼓は重要な役割を果たしてきました。伊豆諸島南部、八丈島・小島・青ヶ島の3島ではこの独特の神事が盛んでしたが、特に絶海の孤島であった青ヶ島では「牛とカンモ(薩摩芋)と神々の島」と言われるほど、ごく近年まで生活の中に深く息づいていました。神事において巫女を務める女性の多くは芸事に秀でており、巫女であるのと同時に島唄や島踊りの名人でもありました。そのため、儀式の合間の休憩時などには、唄や踊りまたは太鼓を叩いて楽しむこともしばしばであったそうです。遊びのときの太鼓は、八丈太鼓の叩き方と似通っており、女性も中心になって太鼓を叩いた点も共通しています。

 このように青ヶ島の民俗芸能の中で太鼓の音がずっと親しまれて来たなか、「還住太鼓」がその歩みを始めたは今から約40年前のことでした。

 「還住」という言葉は、八丈流人・近藤富蔵の大著「八丈実記」を元に民俗学の大家・柳田國男が記した「青ヶ島還住記」の中に初めて登場しました。青ヶ島で「起こし返し」と呼ばれていた大噴火から故郷再興までの軌跡は、それ以後、「還住」という言葉に収斂され広く知られるようになりました。この青ヶ島の祖先が背負った「還住」の歴史に一際熱い想いを寄せたのが、八丈島・樫立出身で後に青ヶ島村長も務められた故・山田常道氏でした。「還住太鼓」は、その常道氏と若かりし頃の現会長・荒井良一が中心となり太鼓の修練を積み、1978年の東京都島嶼青年大会においてついに初舞台を踏みました。青ヶ島の祖先が歩んだ還住を物語る郷土芸能として「還住太鼓」が誕生した瞬間でした。

 八丈島と青ヶ島は長い歴史の中で親子のように共通する風土文化を育んできましたが、太鼓においても、下打ちと上打ちのふたりの打ち手が両面から一つの太鼓を叩き即興的に調和を生み出していくという(打楽器の奏法としては極めて稀な)共通のスタイルをもっています。そのなかで、更に何か青ヶ島らしい表現方法を求めて創意工夫を重ね生まれたのが、還住太鼓の代名詞ともいえる“バチ回し”です。紅白に染められた2本の撥を、高々と放りあげて回転させる独特の撥さばきは激しい噴火を想起させます。また流麗なバチ運びによる叩き姿は故郷・還住を祝う祈りの舞のようだと称されています。

 今日、「還住太鼓」は島唄・島踊りとならび島の祭りや行事には欠かせない、青ヶ島に脈々と受け継がれる“還住”の精神、その想いを繋ぐ郷土芸能として、島民をはじめ青ヶ島に縁あるたくさんの方々に愛されています。

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